昭和48年02月18日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 大きな信心がよいとは、大きなおかげが受けられる信心という事だと思う。誰でも小さいおかげより、大きなおかげが良いでしょう。そんならどうでもひとつ、大きな信心をしなければいけません。そこで皆さん大きな信心とは、どういう信心を言うのであろうか。大きな信心とはどういう様な事。皆さんがどうでもひとつ大きなおかげを頂いて貰いたい。為には大きな信心をしなければいけない。
 大きな信心とは、私はこんな風に思う。例えば様々な困った事、いうなら難儀な事が有ります。いろいろ苦しい事もあります。そのような場合に私が改まればよい、私が修行をさせて貰えばよいという風に、いわゆる心に定めた信心だと思う。だから迷うと言う事がない。こげん信心しよるとに、どうしてこげな困った事が起こって来るじゃろうか。こんなに信心しておるのに、どうしてこういう苦しい事が続くだろうか。もう既にそういう時には迷うておる時。迷い信心ではいかん。
 いわゆる大きな信心がよい。大きな信心とは、決して行きづまりがない。これが私は大きな信心だと思う。だから大きな信心すれば、大きなおかげは間違いない事です。大きなおかげを頂きたいなら、ひとつ大きな信心をしなければいけない。大きな信心とは行きづまりのない事。もう私は行きづまったと。もう分からんごとなったと。信心が何が何やら分からんごとなったと、そういう難しゅう考える事は要らん。
 そういう時にそういう難儀に直面した時に、私が改まりさえすれば良い。私が修行させて貰いさえすればよいと。そこには誰をどうと言う事もない。例えばおかげが受けられんのは、まぁだ修行が足りんのだと思うたら良い。行きづまりがない。大きなおかげを頂きたいなら、そういう大きな信心をせにゃいかん、行きづまりのない信心を。私が研けばよいのである。小さい事言うたっちゃならん。信心しよってどうしてこんな事が起きてくるじゃろうか、と言う様な事もない訳です。
 同時に迷い信心ではいかんと仰るように、迷う事がひとっつもないのです。私はもう信心が分からん様になったという事がないのです。一心と定めいと仰る。だからそういう一心と心に定められない。おかげが受けられんのは修行不足だと思うたら良い。おかげが受けられんのは、私がまぁだ改まりが足りんのだと思うたら良い。そういう信心がいうなら大きな信心。大きなおかげを頂きたいなら、大きなおかげを願うならば、それでなからにゃいけません。そう言う事だと、一心と心に定めたらええ。
 誰に不平言う事も、不足言う事も要らん、恨みごとも言う事要らん。信心が分からんようになったと迷う事も要らん。何故かと言うと、私共が改まらなければならないと言う事は、もう数限りなく有るからです。そこから信心のいうならば、有り難いとか楽しいとかと言うものは生まれて参ります。ほんなこと自分が改まりさえすれば、神様はおかげ下さる神様だと。いよいよ神様が信じられるようになるのです。
 お互いが何かこう信心させて貰うて、特別不思議なおかげをね、頂くという事を棚から牡丹餅が落ちて来ると言う様な事、そう言う様な事を願いとし。信心とはそんものだという風な頂き方をしたら、信心はもう私は堕落だと思う。と言うてそんなら、棚から牡丹餅が落ちてくるようなおかげが受けられんかと言うと、そうじゃない。それこそ棚から牡丹餅が落ちるようなおかげ。
 もう只人智人力では、考えられない程しの奇跡的なおかげというものが頂けないはずはない。そういうおかげも有る。けれどもそういう事だけがです、信心だとあわよくば、棚から牡丹餅が落ちるようなおかげを頂きたい。あわよくば例えば奇跡的なおかげを夢みて信心をすると。そういう信心は必ず行きづまるです。そういう信心こそいうなら小さい小さい信心です。
 信心をさせて頂いておって、そこに見たり聞いたりする事のなかに、本当に不思議なおかげが頂かれる。それは本当にお取次ぎを頂いてお願いをする所にです。確かにそういう不思議なおかげが頂けます。奇跡も起こります。けれどもそう言う事が信心だと思うたり、そう言う事を頭に描くような信心は、必ず行きづまるです。だからそういう信心は、小さい信心です。そういう信心では決しておかげは受けられない証拠に、例えば合楽がここに始まって二十数年の間にもうそれこそ、無い命を助かった。
 いうならば目の無い者は目を頂き、足の無い者は足を頂くという程しの、いうならば盲が目があく、ちんばが立ち上がると言う様なおかげは、皆んなが数限りなく頂いたです。もう癌のおかげなんかと言うことは、私は数えきらん位です。この一ケ月余りだけでももうどれだけ、癌でおかげ頂いたというお礼があったか知れないです。それも大してお参りもして来ない。それは只病人だから、勿論頼んでからお願いしたというくらいので。だからそういう事が信心だと言うたらです。
 そういう信心を例えば目当ての信心であるとすると。そういう信心は実に小さい信心であると同時にです。そういう信心は必ず行きづまりが来る。だから何十年間経ってみて、そういうおかげを受けた人達は、もうほとんど信心を止めてしまってます。ある場合に行きづまったんです。あげな奇跡的なおかげを頂いた、あれは腑の良かったっじゃろうと、言うごとなってくるです。
 だから信心はどうしても、大きな信心でなからにゃいかん。大きな信心とはです、もうどのような場合に直面しても、私が改まりさえすればいい。私が修行させて貰いさえすりゃいいという信心が、大きな信心。だから、どういう事が起こってもです。信心とはそういう事だと、心の中に定める。だから自分の心はおかげの方へ向いてませんから、神様の方へ、いわゆる改まっていくのですから、修行するのですから、心はもういやが上にも神様の方へ向かって進んで行くという信心。
 ですからどういう難儀な事が、信心しよって、どうしたこんな事が起こっただろうかなんて言うのは、迷いというものがある。迷い信心ではいかん一心と定めい。その一心と定めると言う事は、信心とはそれだとひとつ一心と定めなければいけない。私が修行不足である、私が改まりさえすれば良い。だから修行する改まっていくから、しかも人間にはどれだけあるやら分からないほどしの、改まらなければならない事が、多いのですからもう愈々神様へ向こうて進んで行く以外にはない。
 そういう信心を今日は大きな信心と、聞いて頂いた訳です。信心ちゃもう棚から牡丹餅の落ちるようなおかげ。信心ちゃもう本当に奇跡的な、人間の知恵力では、及びもつかないような事が起きてくると言った様な事が、信心だのように思いよると、そうにゃお参りしたばってん、奇跡も起こらじゃったと、言うてから止めてしまう。そうにゃお願いしたばってん、棚から牡丹餅は落てじゃったと言うて、もう迷いが生ずる。
 神様ちゃいい加減なものではなくて、自分自身がいい加減な信心をしておってはならないという事。そんなら、いい加減でない信心とは、どういう信心かと言うと、私が改まりさえすれば良い。家内でもなからなければ子供でもない。それが女の方であるならば、主人でもなからなければ子供でもない、嫁後でもないち言う。私自身にあるのだおかげの受けられない元は。私が改まっていく以外にはない。私が修行させて頂く以外にはないという事になる。そういう信心をもう行きづまりがないです、これなら。
 そして絶対間違いがない。ですから迷いが起こらない一心と定める。いうならそこに大改まりに改まった信心が出来てくる。そういう信心を、私は、大きな信心だと。それでもやっぱり、時々は奇跡がある。棚から牡丹餅の様なおかげも頂くけん。その事がですそれこそ夢よもう一度と言った様な心が、お互いの心の中にあると迷いを生じます。それは神様のご都合で下さるのだから。
 だから棚から牡丹餅のようなおかげ、奇跡的なおかげと言う事は、私がお話をするより、皆さんが頂いておられたり、又は聞いて知っておられるのですから申しませんけれども。奇跡というのは棚から牡丹餅のようなおかげというのは、神様が神様の権威にかけて、私共には関係ない事。神の権威にかけて、本当言うたら、神様にはこういう力があるのだという権威にかけて又はです。
 昨日私午後の奉仕の時でした。ここで平仮名で「めしや」と頂いた。一膳めしやとよう言うでしょう。平仮名で「めしや」。ははぁここはやっぱりめしやだろうと、こう思うた。みんながここに、ままにならんならん。だからままになる場ですから、ははぁここはめしやだなと思うた。だからめしやですから、ただで食べさせる訳にはいかん。只普通のお付合か何かでです。まぁそげなこつ言わんな、お昼ご飯頂いて帰りなさいと言うとじゃなかっじゃから。ままになるおかげを頂きたいから参って来るのだ。
 だからままになる、御飯いっぱい食べさせて下さいと言うなら、その代償が必ず必要なんだ。それをお取次ぎを願い、お取次ぎを頂くと言うのです。お取次ぎを願われる。どうぞ、ままにして下さいと言うて。あぁそんならば今度は、そんなら御理解をよく頂いて帰って下さいよと。お取次ぎを今度は頂いて、皆さんは帰らなければいけない。そのお取次ぎを頂くと言う事はせず、お取次ぎを頂いたものを、それを行じようとはせず、只お取次ぎを願うというだけではいけん。
 お取次ぎを願い、お取次ぎを頂くという事から、ままになるおかげと言う事になる。なる程ここは一膳めしやのようなもの。めしやとはそう言う事じゃなと、私は思いよった又そうでもある。昨日たまたま、私はある別な宗教の本を読んでみてくれと言うて、こんなに厚い本を持って来て下さる方があったから。それをたまたま読ませて頂いた。その人は朝鮮人の方がいうなら教主。日本の早稲田大学を出られて、大変いうならば難儀、苦労されて、ひとつの霊能者と言うですかね。
 世界に人間が幸せになっていく元を敷かなければならない。広めねばならないと言う様な、いうなら新興宗教であります。けれどもどんなに考えても、大体がクリスチャンだったそうですから。キリスト教の信心というものを、土台にした信心。それでキリストが、言い現し得ていなかった所を、自分はその原理、原点というものを自分が握っておる。だからこれで完璧なキリスト教的な、キリスト教が生まれて、そして是を以ってしなければ、世界は平和になれないという、もう大変な理論的なお書物なんです。
 もうそれを読ませて頂いてから私は、金光教の信心の素晴らしい事に、愈々驚いてしまった。この事はいつか機会が有ったら、お話させて貰いましょうけれどもね。その中にです。メシヤという事が出てくる。あら私が頂いたつと同じような事が書いちゃる。それは、片仮名で書いちゃる、片仮名と平仮名の違い。その朝鮮人の何々さんという人が、メシヤだというのです。メシヤというのは救世主という意味だそうです。
 世の中を救うという人だそうです。私が頂いた事とそれとを、期せずしてここへ頂いてははぁしてみると、私はメシヤだなと思うんです。沢山な人が助かって貰わなければ、最近私が和賀心時代を創る。世界にこういう金光様の御信心は理屈じゃないです。それは理論をつければ、私が二十何年間お話をしてきた、それが、全部理論になってくるでしょう。けれども結局は、和賀心一つでどういう罪の深い人であっても。どういう因縁、難儀の元を持っておる人であってもです。
 例えば因縁なら因縁、めぐりならめぐりという事を、系統立てて学問的にするなら、もう何冊の本をもってでも著さなければ、著し得ない程しの大変な事なのですけれども。そういう事が分かって、そこんところが解決しなければ、人間が幸せにならないという、沢山な宗教が、そういう風に仏教でも、キリスト教でも説いておりますけれども。金光様の信心は此の方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん。
 その信心の喜びいわゆる、和賀心をもつてするならばです、それは丁度太陽の前の星のようなものだと。星の数程しの例えば、難儀の元というものが有っても、太陽の程しの和賀心というのは、そういう働きのものだ。和賀心と言うことを目ざす、和賀心になる事を精進させて頂くなら、あらゆる難儀の元が消滅するという程しのこと。この事は又時間をかけて、段々聞いて頂こうと思う。ですから今日私共が、大きな信心が良いと仰る事は、もう人じゃない、私が改まりさえすれば良い。
 私が修行させて貰いさえすれば良いと言う、改まって修行させて頂いておるとです、自分の心の中に自ずと和賀心が宿ってくる。いや和賀心が生まれてくる。それが愈々神に向かう事を促進する事になり。その心が一切をおかげにしていくという働きが有るのが、お道でいう和賀心。それに最近では、五つの願いと言う様な、あぁいう偉大な願いを、私共がさせて頂くと言う事が、大きな信心なんです。
 そういう信心を頂いてそして、どうぞ健康にならせて下さい、お金持ちにもならせて下さい、家庭円満にもならせて下さい。そして、神様が与えて下さってある所の、天職を全うさせて下さい、天職を天職たらしめて下さい。そういう働きが出来る私にならせて頂いた。その力をもって世の中に、和賀心時代を広めさせて頂こうという、神願成就のいうならば運動員にでもならせて下さいという程しの願いなのですから。
 これは大変な大きな信心です。そういう大きな信心をさせて貰う。私共が只棚から牡丹餅を願うような、只奇跡だけを目当てにするような信心であってはならない。その奇跡というのは神様がね、神を信じさせたいばっかりに現して下さる、ひとつの方便だと言う事なんです。例えば私が奇跡を表す。はぁなる程もう本当に、親先生は神様のような人じゃと、例えば皆さんがそういう風に見たり、信じたりして下さる事の為にです。
 私を救世主と思わせたいばっかりに、奇跡は起きるのです。親先生のお取次ぎを頂いて、医者が治しきらん病気が治ったと。その親先生を信ずるという事は、金光大神を信ずるという事であり、金光大神を信ずるという事は、天地金乃神様を信ずるという事であり。その信ずるという、皆さんの力がおかげを頂けれる元になるのですから。ただ奇跡を見せて、助けてやろうというだけじやないです。
 奇跡というのは、棚から牡丹餅が落ちる程しのおかげというのは、神様を信ずる力を、皆さんに与えたいばかりだからなのです。そういうお取次ぎの働きというものを、現して下さる事が出来る親先生である事を信じさせる為にです。これは私は取分け、その事を頂いてです、取次者たる者矢張り救世主という自覚に立ってから、お取次ぎが出来るような先生にならなきゃならないなと言う事を、いよいよ深く思うです。
 けれどもそれはです、別に大した力、大した事ではないと。只皆さんが信ずる力を頂かせて頂く事の為に、奇跡というものは、神様が現して下さるだけの事です。それこそどういう仏教的に言うなら、因縁の深い人であっても。キリスト教的に言う原罪と言う、どういう元となる所の罪を持っておる人であっても、それで許されないという事はでない。それは他の宗教でなら許されないでしょう。
 けれども、金光大神の道はです、喜び一つでそれが説ける。和賀心一つでそれが解消するという程しのものであるという事。それは丁度太陽の前の星のようなものである。そういう大変な事を、分からせて貰うのですから、小さい信心ではいけない事が分かるでしょう。大きな信心。それには大きな信心は、もう絶対行き詰まる、だから皆さんがもし行き詰まったと言うならばです。皆さんの信心がいかに小さかったかた言う事を、言うより他にないですね。
   どうぞ。